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東京地方裁判所 昭和61年(ヨ)2285号 決定

申請人

大久保昭三

右訴訟代理人弁護士

杉本昌純

被申請人

株式会社中日新聞社

右代表者代表取締役

加藤巳一郎

右訴訟代理人弁護士

淺岡省吾

主文

本件申請はいずれもこれを却下する。

申請費用は申請人の負担とする。

理由

一  当事者の求めた裁判

1  申請人

(一)  申請人が被申請人に対し、雇用契約に基づく権利を有することを仮に定める。

(二)  被申請人は申請人に対し、昭和六一年六月以降本案判決確定に至るまで毎月二五日限り三七五、〇〇〇円を仮に支払え。

2  被申請人

主文と同旨

二  当事者関係

1  被申請人

次の事実は当事者間に争いがない。

被申請人は、肩書地に本店(名古屋本社)を東京都(住所略)に支店(東京本社)を置き、「真実・公正・進歩的な日刊新聞中日新聞ならびにその他の新聞の発行を中心としてマス・コミュニケーションの社会的使名(ママ)を達成するとともに公益および文化開発等に関連する諸種の事業を行なう。」ことを目的とする株式会社であり、新聞関係では、東海圏を中心に右の中日新聞、首都圏を中心に東京新聞(公称九〇万部)、そしてスポーツ新聞としての東京中日スポーツ等を発行している。

「東京新聞」については、被申請人は、昭和三八年一一月、同新聞を発行していた申請外株式会社東京新聞社と業務提携し、同四二年九月三〇日東京新聞の発行とそれに付帯する一切の業務を譲り受け、同年一〇月一日以降名実ともに同新聞を発行することとなり、今日に至っている。

2  申請人

次の事実は当事者間に争いがない。

申請人は、昭和三年四月二六日生れで、熊本県立人吉高校卒業後株式会社電通に入社し、同三一年七月東京新聞社に入社し、同四二年一〇月以降は被申請人の政治部等の記者として勤務してきた。

申請人の賃金は、本件解雇処分当時、〈1〉本給一七八、〇五〇円、〈2〉職位身分手当三三、〇〇〇円、〈3〉家族手当三七、〇〇〇円、〈4〉調整給一一五、五二六円、〈5〉通勤手当二、二六〇円、〈6〉精勤手当一一、〇〇〇円、〈7〉住宅手当一一、五〇〇円であり、〈8〉時間外・深夜手当は、昭和六一年一月以降についてみても一一七、七〇〇円を下ることはなく、諸税・社会保険料・組合費等の負担を控除した手取額において三七五〇〇〇円を下廻ることはなかった。

また、いわゆる賞与については、昭和六〇年六月の実績で、支給総額一、三五四、七六二円、手取額一、〇七七、八四九円、同年一二月の実績で、それぞれ一、三三三、〇六七円、一、〇六〇、五八九円であった。

三  申請人に対する解雇処分の存在

次の事実は当事者間に争いがない。

被申請人は申請人に対し、昭和六一年六月一日、申請人を同年五月三一日付をもって解雇する旨の意思表示をした(以下「本件解雇処分」という)。

本件解雇処分事由は、申請人は五四年三月一二日付東京新聞朝刊の「『芦田日記』を初公開」の記事執筆の際、日記原本にない事項を上司に無申告で加筆し、事が明らかになったのち被申請人が納得し得る適切な対応をしなかった。そのため、被申請人は、申請人を社員として不適格であると認め、就業規則二七条一五号に該当する」ということである。

なお、就業規則二七条には「職員が次の各号の一に該当するときは、退職させるかまたは解雇する。」とし、その一五号には「その他やむを得ぬ理由が生じたとき」と定められている。

四  本件解雇処分の効力

申請人は、本件解雇処分は無効であるとし、その理由として本件解雇処分はその事由なくしてなされたものであるとか、解雇権を濫用してなされたものであると主張するので、以下、申請人の主張に沿って本件解雇処分の効力を判断することとする。

1  先ず、申請人は、本件解雇処分事由の前後、すなわち、申請人は、昭和五四年三月一二日付東京新聞朝刊の「『芦田日記』を初公開」と題する記事(以下「本件記事」という。)執筆の際、日記原本にない事項を上司に無申告で加筆した(以下「本件加筆部分」という。)、との点につき、申請人は、新聞記者として要求される取材・執筆上の注意義務に基づき、その範囲内できわめて慎重に対処してきたとし、本件解雇処分事由の後段、すなわち、申請人は、事が明らかになったのち被申請人が納得し得る適切な対応をしなかった、との点につき、申請人は、被申請人に取材源、取材方法等取材の経緯を詳細に報告し、いわゆる別日記―メモ(憲法改正問題についての直接的な資料)の所在の発見・入手に誠実に努力してきたとし、以上のことから申請人には就業規則二七条一五号の「その他やむを得ぬ事由が生じたとき」に該当する事由はなかったと主張する。

2  はじめに、本件記事の本件加筆部分についてみるに、次の事実は当事者間に争いがない。

本件記事は、「芦田均元首相の日記明るみに」、「憲法九条はマ元帥発案」、「幣原元首相説を否定」、「戦後史解明に貴重な『証言』」、「自衛権で芦田修正」、「閣議の模様、生々しく」、「改憲論義(ママ)に新たな火ダネ」、「『保守合同』克明に」(一面トップ)、「新憲法制定の経緯」、「『大局上、やむなし』と“戦争放棄”を受諾」、「『子孫に重大責任』、幣原内閣に涙声も」、「34年ぶりに公開された『芦田日記』」、「保守合同の舞台裏」、「『汚職暴露やめよ』、芦田氏ら中曽根氏を説得」(八、九面見開き)等の見出しで掲載された大スクープ記事で、申請人が執筆したものである。

後に本件記事の本件加筆部分として問題となる記事部分は、次のとおりであり、日記の日付では、昭和二一年六月二六日、同年七月二七日、同年八月二四日の三日分で、記事の行数にして七五行である。「「六月二十六日(水)くもり 衆院本会議における質問者のうち、注目すべき発言を行ったのは、共産党の野坂参三君である。その要旨は、次のとおりである。

野坂参三君(共産)戦争一般の放棄と書いてあるが、戦争には二種類ある。一つは不正の戦争で、これは日本の帝国主義が満州事変以後起した他国征服と侵略の戦争である。同時に侵略された国が自国を守る戦争、つまり中国あるいは英米その他連合国の防衛的な戦争は正しい戦争といって差し支えない。憲法草案に戦争一般の放棄でなく、侵略戦争の放棄とするのが的確である。

吉田首相 国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられるようだが、そのようなことを認めることが有害であると思う。

七月二十七日(土)晴 憲法改正特別委員会小委員会(秘密会)における遂(ママ)条審議で、私は第九条(戦争の放棄)の修正案を提出した。第九条一項の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求しと加えること。また第二項に「前項の目的を達するためとの字句を添入することである。

第一項の修正は、原文の字句が唐突なので戦争放棄を決意する日本国民の気持ちを表現するために、追加したものである。

第二項は、武力および戦力保持に制限を加え、第九条の侵略戦争を行うための武力は、これを保持しない。しかし自衛権の行使は別であると解釈する余地を残したいとの配慮からでたものである。小委員会で、この修正の真意についてとくに言及しなかった。字句修正にとどめた。

八月二八日(土)晴 第九条についての私の修正提案を含めて本会議で可決した。戦争放棄の点について、私は次のような特別委員長報告を本会議で行った。

第九条の規定でわが国は自衛権をも放棄する結果になるか、どうか。自衛権は放棄しないまでも、軍備を持たない日本は、国際的保障でも取り付けなければ、自己防衛の方法を有しないのではないかという問題に憲法改正特別委員の、熱心な論議が展開された。

政府の見解は、第九条の一項は自衛のための戦争を否認するものではないけれども、第二項によってその場合の交戦権も否定されているという。

これに対し委員の一人は、国際連合憲章第五十一条は明らかに自衛権を認めており、かつ日本の国連参加を想定すると、国連軍には世界の平和を脅威するごとき侵略の行われるときは、安全保障理事会はその兵力をもって被侵略国を防衛する義務を負うから、今後のわが国の防衛は国連参加によってまっとうせられるのではないか、との質問があった。

政府は、この質問に同意見であるとの答弁を行った。

3  次に、芦田日記の史料的意義についてみるに、本件疎明資料によれば次の事実を一応認めることができる。

芦田均元首相は、戦後我国憲法の制定過程に直接関与していた。すなわち、同人は、内閣の憲法審議に閣僚として関与し、その改憲案が議会に付議されるや制憲議会の「帝国憲法改正委員会」の委員長として昭和二一年七月一〇日から同月二二日までの審議に加わり、次いでそれを受けて同委員会の下に設置された「憲法改正小委員会」での同年七月二五日から八月二〇日までの非公開審議(秘密会)にも同小委員会委員長として加わるなど、憲法改正審議の全過程に直接参画、関与した。

また、この「憲法改正小委員会」での昭和二一年七月二九日以降の審議において憲法九条一項冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」と加え、同二項冒頭に「前項の目的を達するため、」との字句を挿入するという、後世「芦田修正」といわれる提案が行われ、これに関与したことから、かねてより「芦田日記」が注目されていたのである。

この改正憲法案は、衆・貴両院の審議を経て、昭和二一年一〇月三〇日閣議決定、同年一一月三日公布となったのである。

右のように「芦田日記」は、事後の回想や追憶ではなく、その時々に、日々書き続け、書き残した日記(いわゆる即時的記録)であるが故に史料的価値が高いとされている。

本件記事も、その解説において、この「芦田日記」の意義を詳述し、「芦田日記は当事者が日々直接書き残した“証言”ということに歴史の意味があろう」と述べ「芦田日記」の写真を掲げて報道している。

4  そこで、本件記事の本件加筆部分が問題とされるに至った経緯をみるに、次の事実は当事者間に争いがない。

(一)  本件記事の掲載から約六年九か月を経た昭和六〇年一二月一九日、朝日新聞同日付朝刊は、「芦田均日記」「戦後史を解き明かす」等と題する記事を掲載し、「『芦田日記』が来春早々、岩波書店から刊行される」として、その解説を行ない―右の『芦田均日記第一巻』は、第一刷が昭和六一年一月二〇日に発行―、憲法九条に関するいわゆる芦田修正」に触れて、

「芦田修正の意図はなんだったのか。のちに芦田氏は、最初から戦力保持の意図を持って修正した、と語るのだが、これには早くから異論があった。

この問題は長い間ナゾだったが、昭和五四年三月、一部報道機関が「芦田日記」全容を入手と報道、芦田氏は昭和二一年七月二七日付で「(前項の目的を達するため、との文言を加えたのは)自衛権の行使は別であると解釈する余地を残したい、との配慮からしたものである」と書いていると報じたため、芦田修正の意図論争は決着がついた、とする向きも少なくなかった。ところが今回公刊の『日記』には、そういう記述はいっさいない。(中略)

『日記によれば、芦田氏は七月一八日から八月九日まで日記をつけていない。ただし芦田氏は『日記』とは別に『手帳日記』をつけており、これにはこの間も記述がある。しかし、ここにも一部報道機関が報じたような記述は全然ない。このミステリーについて芦田氏の外孫下河辺元春氏は『かつて一部報道機関に芦田の日記をお見せしたことがある。なぜ存在しない記述が活字になったのか私も理解に苦しむ』と語っている」とした。

その後、朝日新聞は、昭和六一年三月一四日付の朝刊で、進藤栄一筑波大助教授(国際政治学。岩波書店刊・芦田均日記の編纂者の一人で、同書の「解題―日記と人と生涯―」を執筆)の「『芦田均日記』が明かす歴史の顔」と題する論稿を掲載し、同論稿は、本件記事に関し、「(前略)制憲過程について『日記』はまた、憲法第九条のいわゆる芦田修正にまつわる神話の虚構をも明らかにしている。これまで私たちは、芦田修正が、独立後の再軍備を引き出すため、憲法改正委員会で芦田が入念に用意した修正であったとする歴史解釈を、常識の一部としてきた。『ヒトラー日記』ならぬ『芦田日記』のつくられた再現すら紙上に公表されさえした。しかし、『日記』によるかぎり、そうした常識を正当化できる記録はない(後略)」等と非難した。

(二)  これら朝日新聞等の指摘を受けて、被申請人は、申請人から本件記事についての取材の事情報告を求める等したうえで、昭和六一年四月一六日、同日付の東京新聞に編集局長松本克巳名義の「『芦田日記』について=54年本紙報道の経緯」と題する記事を掲載して、指摘された疑問に応えようとした。

同記事は、「東京新聞は去る五四年三月、元首相の遺族の特別な御配慮で日記の全容を閲読し、さらにいくつかのメモ、著作、論文類を精査したうえで………元首相自らの記録に基づく新憲法制定、保守合同のいきさつの主要部分を紹介しました」とし、元首相の「新憲法解釈」(昭和二一年一一月三日ダイヤモンド社刊)、同じく「憲法はこうして生れた―秘められた歴史的真実」(昭和三一年三月三〇日および同月三一日東京新聞朝刊に寄稿)を引用して、「元首相が自宅でしたためていた日記に『芦田修正』提案当日の記述はないが、これらの記録から『芦田修正』の真意は、『自衛権保持の余地を残す』ことにあったと認められます。本紙の報道に当たって遺族側の要請は『故人の真意を伝えてほしい』というものでした。このため本紙は、『芦田日記』の本質を正確に伝える観点から遺族に事前にお見せして了解を得たうえ別掲の二一年七月二七日の項などを日記の一部に補足して報道したものです。………」と述べている。

(三)  その翌日、朝日新聞は、同日付朝刊で、「芦田均日記」、「つけ加えられた75行―54年3月の東京新聞の報道」、「憲法9条2項、自衛権解釈の裏付け部分、原文になかった」等の見出しの下に、松本克巳・東京新聞編集局長、下河辺三史氏(芦田氏の女婿、当時の秘書官)前記の進藤栄一・筑波大助教授(国際政治)の各談話をも併せて掲載、本件記事の本件加筆部分について大々的に報道した。

サンケイ新聞も、同月二三日付朝刊で、「『芦田日記』を改ざん、「なぜ起きた“加筆報道”東京新聞」、「核心部分(憲法九条)を“作文”」等の見出しで、本件記事につき大きく報道した。

(四)  被申請人は、同年五月三一日、同日付の東京新聞朝刊の紙面で、一面に「『芦田日記』本紙報道、75行削除します」と題して、「おわび」(社告)を掲載し、本件記事の加筆部分について、「社内に調査委員会を設けて調査してきました。その結果、日記原本にはない憲法審議の部分など75行を取材記者がつけ加えていたことが判明しました。同記者は『芦田均元首相自筆の“帝国議会憲法審議メモ”を引用した』と述べていますが、同メモの存在は確認できませんでした。このため同日付朝刊の関係部分を左記の通り削除いたします。………深くおわびいたします」として、本件記事中前記の〈1〉昭和二一年六月二六日、〈2〉七月二七日、〈3〉八月二四日の三日分の記事七五行等を削除する旨を明らかにし、他方、同紙面の四面に、「芦田日記、本紙調査委員会報告」を掲載した。

その要旨は、本件記事の前記の三日分七五行については、日記原本に存在しないことが確認されたことを前提に、〈1〉「本紙『芦田日記』報道の記事は、政治部所属の取材記者が芦田氏の日記を保管する遺族から、日記の一部を借り受け作成した。同記者は原稿を遺族のもとに持参し事前に閲覧を依頼、『記事も正鵠(せいこう)と存じます。加除すべき個所はありません。為念(ねんのため)』(要旨)との遺族の念書を添えて政治部に提稿した。以上の経緯から、取材記者が上司に無断で三日分75行をそう入した事実を、編集責任者はチェックできぬまま紙面化するに至った」、〈2〉「その後社外の憲法研究者から『二十一年七月二七日の“芦田修正”に関する記述に疑義がある」との指摘を受け、編集局幹部は歴史資料にかかわる重大問題として日記にない記述をそう入した理由、そう入部分の原資料の出所など全容の解明に努めてきた。取材記者は『芦田氏が日記とは別にしたためていた“帝国議会審議メモ”があり、そこから引用した』と主張している」、〈3〉「取材記者は、『芦田氏は、同氏にとって政治活動の最重要期であった憲法審議の模様や感懐を、日付を追ってメモしていた。この“審議メモ”はいわば“第二の日記”ともいうべきもので、これを加えてこそ真の『芦田日記』となると考えた』と述べている。しかし、同記者の説明に基づき、メモの所持者という某政治家(故人)の周辺を可能な限り調査したが、“審議メモ”が存在したと判断できる証拠は発見できなかった」という諸点にある。

5  申請人は、本件記事の取材の経緯と執筆につき、次のとおり主張・陳述している。

(一)  申請人は、昭和四三年夏、芦田均元首相の親友であり、政治的にも緊密な関係にあった某長老政治家(故人。元参議院議員、元閣僚)と親密に交際を重ねるうちに、同政治家が、晩年病を得た芦田均元首相を見舞った際、同人から「将来、国家に役立つときまで一切極秘に――」と手帳風のメモ書きを託されていることを聞かされた。申請人は、その際早速一読を希望したが、芦田均元首相との盟約等を理由に拒否され、その後も折をみて再三にわたり一読を所望したところ、昭和四四年頃、漸く、〈1〉いかなる場合にも出所は明らかにしない。〈2〉メモ書の存在も秘匿し、将来、記者としてメモの内容を利用する場合も、荒筋か一部分に限るとの条件で一読を許された。

そのメモ書きは、芦田均元首相が昭和二一年帝国議会衆議院憲法改正案特別委員長時代の審議関係を記録した手帳風のもので、憲法審議の記録、感想等を横書に書き留めたものであった。

申請人が最も注目したのは、憲法九条の戦争放棄をめぐる「芦田修正」についての芦田均元首相の所感であった。申請人は、極秘を条件の一読なので、即刻その場でメモをとるのは非礼と考え読んで記憶した内容を帰宅後整理し、更にその後二回程閲読を求め、「芦田修正」を中心に右メモの内容を記録した。

(二)  それから約八年弱を経た昭和五二年一月二五日開催の防衛庁の新年パーティー(於、品川のホテル・パシフィック)の席上で猪木正道防衛大学校長(当時)から「芦田日記」の存在を知らされ、芦田均元首相の長男芦田富の紹介を依頼して「芦田日記」閲覧の実現を図ることとした。

富は、防衛大学校教官を退官して貿易会社を経営しており、渡米したりしていて連絡に時間がかかったが、昭和五三年来、富の義兄・芦田均元首相の女婿下河辺三史(芦田均元首相の秘書官を勤めた。当時、日製産業社長)が「芦田日記」を保管していることも判明し、富の口添えで、結局、申請人は昭和五四年一月一八日午前一〇時すぎに右下河辺と会うことができた。

下河辺は、即座に「芦田日記」の取材および報道を了承したが、〈1〉憲法に関する事項、〈2〉政治資金、同献金に関する氏名と金額、〈3〉家族の私事に関する事項の除外を条件とした。

申請人は、右の〈2〉、〈3〉については即座に納得したが、〈1〉については再考を求め、松本克巳政治部長(当時)と協議の必要を感じて辞去した。松本部長は、憲法問題は「芦田日記」の柱であるから、何とか下河辺の了承をとりつけて欲しいということであったが、借用できた日記原本は、保守合同関係と吉田・芦田防衛論争関係だけであった。申請人は、種々努力を重ね、同年二月一四日には、国会図書館幣原喜重郎平和文庫に「憲法制定の閣議・芦田均」として、芦田用箋というネーム入り便箋に昭和二一年二月一九日から同月二五日までの「芦田日記」をペン書きで正確に写したと思われるもの、同資料とともに「民主党総裁を繞る幣原男と私」と題する芦田均元首相談話速記(二百字詰原稿用紙二九枚)が保存されていることを突きとめ、下河辺に更めて憲法に関する「芦田日記」の借用を依頼したところ、同人は、右の「芦田日記」の写しは日記原本の筆写であることに間違いないようだと述べ、「その写を基に憲法改正部分を報道されたらいいと憲法関係の報道についての了承を漸くにして申請人に与えた(但し、この部分の日記原本の貸出しには応じてもらえなかった)。

(三)  その際、申請人は下河辺に対して、「日記原本には帝国議会における憲法改正論議はどの程度記載されているか」と質問したところ、同人は「幣原内閣の閣議における憲法改正論議は詳細だが、議会審議については簡単である。」と述べた。

申請人には、この点が疑問に思えた。何事も克明に記録を残している芦田均元首相が、帝国議会における憲法改正論議こそ最優先したであろうに、何故、日記原本には簡単な記述しか残されていないのか。

「芦田修正」の真意を議事録に残していないことの理由について、芦田均元首相本人が「言える国際情勢ではなかった」と述べていたとの申請人の稲葉修からの取材、当の芦田均元首相の昭和三二年一二月五日の憲法調査会第七回総会における参考人としての供述等から、申請人は、いわば本日記の外に別日記とでもいうべきものがあり、それが前掲の長老政治家が芦田均元首相から託された手帳風のメモ書ではないかと考え、それを「芦田日記」の別日記として受取り、そのメモ(の閲覧メモ)に拠って本日記の空白部分を補完することとしたのである。

こうして、申請人が本件記事を執筆する直接の資料としたのは、〈1〉下河辺三史から借用した「芦田日記」(本日記)原本(保守合同関係と吉田・芦田防衛論争関係)、〈2〉国会図書館幣原喜重郎平和文庫で発見した「芦田日記」の転写(芦田用箋)、〈3〉長老政治家に託された芦田均元首相のいわば別日記の閲覧メモということになる。

(四)  申請人が本件記事を執筆するに際し、原稿の構成や重点の置き方については、松本政治部長、岡部担当デスクとの数回の協議に基づくものであり、その過程で右上司らも本件記事の直接的資料を充分知っていたといわねばならない。記事の原稿は、昭和五四年二月二七日午前中に略々完成した。

通常、新聞社は原稿を事前に関係者に見せて了解をとるようなことはしない。しかし、本件記事には、前記のような補完部分があるので、下河辺の閲読と承諾を求めることにし、同日午前一〇時頃本件記事の原稿全部を持参して日製本社に同人を訪ね、「原稿は日記の要約なので文意不十分と思われるところは、遠慮なく加算ないし訂正して欲しい。帝国議会における憲法改正審議についての芦田氏の記述が日記原本にはなく、別途に芦田氏が記述したといわれる審議メモを入手しているので、同メモで補完してみた。同メモの真疑(ママ)も含めて検討され、不都合のときは削除していただきたい。」旨依頼し、更に申請人は、右の依頼の趣旨を用紙に書いて本件記事の原稿に添え、かつ閲読の際に注意をひくよう原稿の憲法改正審議の部分に用紙をはさんで全原稿を渡した。

同日夕刻、下河辺から申請人宛に「原稿を読了した」旨の連絡が入ったので、申請人は直ちに前記日製本社に同人を訪ね、午前中に渡した本件記事の本原稿を受取った。その際下河辺は、「原稿はよくできている。亡父のため有がとうございました。一筆添えておきます。」と述べて、既に用意してあった封筒を申請人に渡した。

その「一筆」の全文は次のとおりである。

東京新聞社

大久保昭三様

前略 全稿読了いたしました。日記の抄録についてはよく纏めておられると思ひます。記事も正鵠と存じます。

加除すべき個所はありません。為念。

(不一)

こうして、昭和五四年三月一日、申請人は、松本政治部長に本件記事の原稿を提稿し、その後、原稿は、岡部担当デスクが一部加筆・修正して、整理部に提稿された。

6  そこで、本件解雇処分事由との関連で本件加筆部分について検討することとする。

申請人は、右のように本件加筆部分は「芦田日記」そのものに記述されているのではなく、長老政治家から受取った手帳風のメモ書が別日記であると考え、これに基づいて補完したものである旨自陳している。

申請人の自陳する右手帳風のメモ書なるものも本件疎明資料のうえでその存在が疑わしいところであるが、この点は措くとしても、本件記事は「芦田日記」そのものとして報道されたことは明らかであるから、報道の真実性に反することはいうまでもない。「芦田日記」が特に憲法九条の解釈に関し大きな史料的意義を有していることを考慮に入れると、この部分に関し本件加筆部分を付け加えて虚偽の提稿をして報道せしめたことは報道機関に携わる者として有るまじき行為であるといわなければならない。そうであるからこそ、朝日新聞等他の報道機関も右の点を厳しく指弾しているのであり、被申請人も報道機関としての存在意義を問われたのであって、申請人はこの点に関し何ら弁解の余地はないといわなければならない。本件疎明資料によれば、申請人は本件解雇処分後この全面撤回を求める異議申立てを中日新聞労働組合になしたところ、組合は、申請人の行為は新聞記者としての根本精神・モラルに反し、別件メモの存在を明らかにする積極的な努力姿勢に欠けているなどを理由に右異議申立てを採用しなかったことを一応認めることができるが、組合のこの措置も事の重大性からみて十分首肯しうるところである。

申請人は、右の点に関連して、下河辺に本件記事の原稿全部を渡したところ、同人から記事は正鵠である旨の一筆を得ているので、その責任を負わないかの如き主張をしているが、申請人は、本件加筆部分が「芦田日記」に記述されていないことを十分認識したうえで敢えて本件記事を提稿しているのであるから、下河辺から右の如き確認を得たとしても、申請人のなした行為の責任が免除ないし軽減されるものでないことはいうまでもない。

以上説示したところから明らかなとおり、申請人には本件解雇処分の前段の事由が存するのであり、これが存しない旨の申請人の主張は採用しない。

7  次に、本件解雇処分事由の後段について検討する。

本件解雇事由の後段は、申請人が本件加筆部分について前述したように問題が明らかになった後に被申請人が納得し得る適切な対応をしなかったということを問責するものであるが、右適切な対応の趣旨は文言自体からは明確を欠くが、後記認定の被申請人の申請人に対する事情聴取の過程から本件加筆部分が「芦田日記」から記述したものであることを裏付ける資料の提出に非協力的な態度をとったことを主に問題にしていることは申請人自身も十分認識していたものと推認することができる。

そこで、右の点についてみるに、本件疎明資料によれば次の事実を一応認めることができる。

被申請人は、朝日新聞等によって本件加筆部分は「芦田日記」には記述されていないなどの報道がされて本件記事が社会問題となって以降その真偽を確認するため申請人から事情聴取等をも含めて調査をしたのであるが、申請人は、当初は本件加筆部分は「芦田日記」そのものの一部分であると強調していたが、その後「芦田日記」には記述されていないが別の芦田日記が存すると述べたり、あるいは「別件メモ」があったなどと述べてその弁解を変転させ、このため被申請人の調査を遅延させたばかりか、例えば調査委員会から申請人が「芦田日記」を記録したと述べていた「閲覧メモ」を探して提示するように求められたにもかかわらずその所在の有無さえ報告していないというように非協力的な態度に出ていたのである。

右認定事実によると、本件記事はまさに被申請人の存在意義そのものが問われていた重大問題であったのであるから、申請人は、事の真偽を明らかにするために積極的に被申請人に協力すべきであったのに、このような態度に出ることなく非協力的な態度に出ていたのであるから、報道機関に携わる者の正常な行動とは到底理解することができない。

以上のとおりであるから、申請人には本件解雇処分の後段の事由も存したのであり、これが存しないとする申請人の主張は採用できない。

8  申請人は、本件解雇処分は申請人の勤務歴、他の解雇処分事例、解雇の苛酷な制裁処分性等を考慮すると解雇権を濫用した無効なものである旨主張する。

しかしながら、申請人の責任の重大性は前述したとおりであり、本件は他の処分例とは全く事実を異にしているのであるから、他の処分例と比較して本件解雇処分の当否を論ずるのは無意味であり、懲戒解雇との対比において本件解雇処分は軽きに過ぎるということはできても重きに過ぎるなどとは到底いうことができない。

よって、申請人の右主張は採用しない。

五  結論

以上述べたところから明らかなとおり、本件解雇処分は有効であり、本件申請は被保全権利を欠き、保証をもってこれに代えることも事案の性質上相当でないので、理由がないものとしてこれを却下し、申請費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判官 林豊)

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